昭和40年01月21日 朝の御理解
皆さんは、信心の目当てというものを、どこに置いておられるでしょうか。信心の目当て、何にでも一つの目指し、目当てというものが、なからなければいけません。信心の目当てというところを、どこに置いておられるでしょうか。その目当てが間違うては、たとえ金光様のご信心を頂いておっても、たいしたことはありません。昨日<うみ>の原さんところのご兄弟なんですよね、の、いつもご夫婦でお参りをしてみえられます。前田さん。ね。実にそのまあ、竹を割ったような、淡白な、あっさりした方なんですね。思うておることを、そのままズバリこう表現される。
昨日も夫婦でここにお参りをしてみえられてから、お礼を言われるんですね。私の、お道の信心を頂くようになったというよりも、椛目にお参りをするようになった金光様のご信心をするようになったというのは、椛目に一回、こうして例えば、月参りをさして頂くと。そうして先生の顔を見るのが目当てだと。ひと月一遍、例えば、こうして先生にお会いしますと、ひと月もてる、自分の心の中を保つことが。
そして先生、一番はじめに、私どもがお参りしたときに、御神米に書き下げくださったのは和賀心、和らぎ賀ぶ心と。その和らぎ賀ぶ心をもって、毎日を過ごさせて頂きます。どのような難儀な、難しい問題のときでもです、「和賀心、和賀心」と自分の心の中に、和らぎ賀ぶ心を願います。どうしても心が落ち着きませんときには、と、こう目をつぶると、先生が、私の心の中に、ありありと現れてくださる。
先日も、その町の町長に、掛け合わなければならん事があった。それはその為に沢山の人が助かる、難儀な問題であった。そんな問題のときでも、私の心の中に和賀心があるとき、行くというね。そして和賀心を持って、町長を、私はおごって来ましたちゅう。町長の方が悪いのです。ですからそれが解決のおかげを頂いてから、みんなが助かりました。というような話をなさっておられましたですね。
皆さんの信心の目当ても、やはり和賀心が目当てでなからなければならんと思います。前田さんは、その和賀心という目当てをです、ただ心の中に頂くために、そんなら私を思い出しておられるのです。ね。この人はいつも言われます様に「椛目の先生に一目惚れだ」とこう言う。「ですから私には、御本部の金光様もなからなければ、御本部もない。また、たくさん通り越えてくる。
私の町にも教会がありますけれども、私は金光様に参りよるとじゃなし、椛目に参りよると。と言うてから、ご案内やら、大祭の時やら頂くけれども、お参りは致しません」とこう言うね。金光様に参るのじゃあない。椛目に参るとじゃ。まあこういう風な、ちょっと人と変わったところがありますけれども、やはり一つのおかげを頂いていくというか、その目当てが狂っていない、間違ってないと私は思うんですね。
私共が、いつどんな場合でも、自分の心の中に和賀心、和賀心を頂かして頂くために、さまざまにお話も頂き、心に練らしても頂き、わが心からも練りださせて頂いて、どのような場合でも、自分の心の中に和賀心の頂けれる信心を頂くために、椛目通いをさしてもらうのであり、信心のけいこをさしてもらう訳なんです。昨夜、菊栄会、とうとう今朝の二時まで、本当にもうみっちり信心のけいこをさせて頂いた。みんなが降りて参りましたのが十二時くらいでしたでしょうか。
それから、私がいろいろ頂きますこともあり、ちょうど十時、もう十時半を回りましたでしょうか、終バスぐらいだったでしょうか。桜井先生がみえました。そしてね、昨日の朝、皆さんに私がお伝えさせて頂きましたことを、そのまんま頂いておられるという事ですね。そして私が昨日、菊栄会の連中に、昨日の朝のご理解を、ご祈念前に聞かせようと思ったけれど、神様が待て、とおっしゃる。
ですから私は後から聞かせようと思うた。そして桜井先生が、また丁度、雑記帳に一冊、ここ十七日から三日余りのことを、みっちり頂いておられることを、椛目の私を中心にして、今晩、集い合うものだけに、このことを見せても良かろうという、そのお知らせを頂いておられます。私が頂いておる事もそのことでしたから、昨日、七、八名でしたでしょうか、楽室に行って頂いた者だけ、それを全部、全部ではありません。
その十七日からの事だけを、読ませて頂いて、みんながもう本当に、今日は神々様の集いだから、これをみんなに見せられるよ、て言うてから、聞かせて頂き、また読ませて頂いたのですけれどもねえ。本当にその、本当に疑ごうて聞きゃあ、怪我するようなことが、中にはございますけれども。例えば、小倉の桂松平先生。福岡の吉木先生。又は石橋先生。又は甘木の初代安武先生と。あたりがそれぞれの神格においてです、ね、教団の在り方にそれぞれの意見を述べておられますですね。
中に、甘木の安武先生が、甘木の、甘木の金光大神の神格をもって、お話をしておられますですね。それに、さまざまな信心、修行により、さまざま神格を受けられた方がたくさんある。ねえ。金光大神は大谷だけじゃない。何人もおられる。その頂いておられる信心の中心になるというものが、私の場合には、天地のご恩徳を悟らせて頂いて、あれだけのおかげを頂いたと。まあ、人間言葉で申しますならです、椛目の大坪さんはです、神愛を悟られて、あの比礼を頂いておられるということが書いてある。
これは神様の言葉で申しますと、もっと実感的にあるんですけれども、控えます。神愛を悟ると。このこと以外にはなか。このことより最高のものはないちゆうて、ね、桜井さんあんたは本当によい師匠を持って幸せ。ようもようもこの神愛を悟られた神愛を分かられたと教えておられます。ね、ですからこれからは、いよいよ本心の玉を磨いていけばいくほど、改まっていけばいくほどです。
この神愛が、いよいよ深く広く分かってくるだろうとね。神愛の信心を悟らして頂く以外はないといったような意味のことを、めいめいお話になっておられますですね。そこでそのお互いの信心の目当てというのが、和賀心なのですよね。「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願 おかげは和賀心にあり」このどのことを言うておられても、必ず例えば、こういうふうに言っておられますですね。金光大神、生神金光大神、とこう普通申します。そこのところを、安武金光大神と、先に、あの天地書附と同じです。
その書体がですね一片、一片ですから、必ずそれがあるのですね。その書体の素晴らしいこと。書体が素晴らしいて言うか、教祖の神様のあのご書体が同じなんですよ。もうこれだけ見ただけでも恐れいってしまいます。それがその金光様、三代様からお書きさげ頂きましたときに、金光様のご気分で、またこちらの信心のことによって、少し丁寧に書かれたり、みだれて書かれたり品良く書かれたりといったようなのがございますね。それが、そん時そん時の先生の気分で、その書体に現れているのですね。
「安武金光大神 天地金乃神 一心ニ願 おかげは和賀心にあり」と。いうふうに、最後に、必ず書いてございます。ね。とにかく「おかげは和賀心にあり」と。教祖の神様は、天地書附をお書き出しになるときには、これはお互いの信心の目当て。だからこれは見やすい所に張って、いつもそのことを心掛けておけ、と言うて、天地書附はくださったという事でございますがね。お互いの信心の目当てはそれなんです。ねえ。その和賀心を頂かせてもらう、というそれなんだ。
それで例えば前田さんの場合はです、その和賀心和賀心というのを、例えば私なら私を思い出すと、それがはっきり和賀心にならせて頂くことが出きる、とこういう訳なんです。ね。そこでならどのような場合でも、どのような事柄の中にでもです、和賀心を維持し、保たせて頂くために、しっかり信心を練っておかなければいけないという事。そして何を体得させて頂くかというと。神愛なのですよ。本当に一遍、皆さんにも読んで聞かせたいような事でしたですね。この神愛の内容についてやらですねえ。
神愛の説明をなさっておられるですね、安武先生が。<それなると>。もう只、あすこにそれこそ居並ぶもの、それを聞いておる一同の者がですね、もう眠気なんか忘れてしまってから、何かその楽室いっぱいに神気が満ちたような感じが致しました。 昨夜は。皆さんがですね、どのようなことの中からでも神愛を悟らせてもらう事です。その事によって、私の心の中がです、皆さんの心の中が、和賀心を保つことができるのであり、いよいよ、その和賀心が深さを持つことが出きる訳なのですね。
お互いの信心の目当てが、この事ばお願いせにゃならんけが目当てじゃないでしょうか。今日は商売の繁昌のことをお願いせんならんけんということが、目当てじゃないでしょうか。ね。成程それは、ひとつの神愛を悟らせて頂くための願いであって、目当てはどこまでも和賀心でなからにゃいかんです。和賀心にならせて頂くと。神様と私共が、さまざまな信心によって通う交流する。神様と本当の意味あいにおいて交流しておるときには、私の心は平生であり、しかも喜びであり、和賀心である。ね。
どういうような在り方にならせて頂いたら、神様といつも交流することが出きるかと。しかも小さくよりも大きく交流することが出きるかと。お互いが、どうでもひとつ信心の目当てを間違えてはなりません。和賀心。ね。その和賀心で私共の願いはさせてもらうのであり、また和賀心になれば私共の願い以上の、おかげが受けられるというのがお道の信心。ですからどこまでも私共、その目当てがですね。
和賀心にならせて頂くことを楽しみ、喜びとさせて頂いて、いわば椛目通いをなさるということになれば、いよいよ有り難いことになると思うですね。前田さんの、そのことじゃないですけれども、もう一番肝心な、肝心なものを、ふっとこう頂かれた感じですね。「私は以前、天理教に、私が足が神経痛か何かで悪かったときに、もう信者が来てから私、もう天理教すかんちゅうばってん、私が寝とるとをつかまえておいてから、みんなで足をもんでくれる。それがやっぱもう気持ちがよか。
もんでもらえば気持ちがええもんじゃけん、ずっともんでもらいよったけん、あんた参らん訳にはいかんごとなってから参りだした。ねえ。ところがそこの先生に不都合なことがあって、私はすぐやめましたけれどもです、天理教に入ったときにも、私はハハァ、これは素晴らしかと思ったのは、天理教は陽気暮らしということを言う。ハハァ、成程、あの歌ば歌うちから、踊るなら、どげな寂しかときでも陽気になる。
これはおかげ頂くばい、これはよか教えばいと、私はあんとき思うた」という話をしておられたが、つかみどころが違うです。「だからもう天理教は、ここだけ覚えりゃよかと、私は思うた」とこう言うとられますたいね。だからそれはどこまでも、いわば荒削りのものなのですけれどもですね。金光様の信心は、何というても和賀心が目当て。だからここのところをひとつ、皆さんが思いこまれてですたい。
果して今日の自分の心が和賀心であるかどうかとね。そこにはそんなら、練り方が足らんのだと。でないならば、ね、練って行くうちに神愛に触れることがでける。そこに相済まぬとか、もったいないとか、有り難いとか、いわゆる和賀心に、本当の意味での和賀心にならせて頂くことが出きるおかげを頂かなければならんと思うですね。おかげ頂かなきゃなりません。